NPO日本移植支援協会

専門家の意見

中西 敏雄 先生

東京大学臨床生命医工学連携研究機構
教授
小野 稔 先生

もう9年前になるが、沖縄の人たちも心臓移植を受けられるようにしたいとの強い思いを抱き、1人の心臓血管外科医(I先生)が筆者のいる東大病院心臓外科への国内留学を申し出てきた。私はI先生の持つ強い思いを感じ、喜んで引き受けることにした。2010年に臓器移植法が改正されて、臓器提供者が増えてくれるのではないかとの期待はあったものの、当時は心臓移植が年間30例ほどであった。臓器移植ネットワークへ登録をしてから移植を受けるまでに3年以上待たなければならなく、補助人工心臓を装着して待機せざるを得ない状況であった。

当時、沖縄では補助人工心臓の手術ができる外科医が1人もいなかった。もし、心臓移植を受けようとすると、本土の病院で手術を受けなければならなく、心臓移植まで故郷を離れて生活をしなければならなかった。I先生は来る日も来る日も熱心に補助人工心臓の手術と患者管理を学び、明け方から行われていた心臓移植の手術にはすべて参加してあらゆるものを吸収しようと努力していた。その甲斐あって、I先生が所属する病院では補助人工心臓の手術ができるようになり、それまでほとんど助けられなかった重い心不全の患者さんを自分たちの手で治療できるようになった。そんなある日、重い心不全のために生死をさまよう50歳代後半の男性(Aさん)がI先生の病院へ運ばれてきた。緊急で体外設置型補助人工心臓が取り付けられた。全身状態が徐々によくなり、東大病院での心臓移植を希望して登録を行った。Aさんは重い合併症で大変な時期もあったが、すべてを見事に乗り越えた。心臓移植待機の順番が上位になったために東京へ奥様と2人で仮住まいを構えた。なぜなら、臓器提供者の情報がもたらされてから沖縄から東京へ向かうのでは移植に間に合わないためであった。

それから数ヶ月後にAさんは心臓移植を受けられて、大きな合併症もなく地元沖縄へ元気に戻ることができた。外来診察の担当はもちろんI先生。彼は東大で学んだことを一つ一つ思い出しながらAさんの診察を行ってくれた。  それから数年が経過した。Aさんはすっかり元気になり、60歳過ぎとは思えないほど活動的な日々を送っていた。心不全前は地元の名士として活躍していたAさんはある提案を持ちかけてきた。沖縄在住で心臓移植が必要な患者さんの支援をする会を立ち上げたいと言う。Aさんもそうであったが、移植前の数ヶ月と移植後6ヵ月から1年程度は移植実施施設に通院しなければならなく、東京などの滞在費などを工面しなければならない。

通常の家庭事情では大変な経済的負担となり、地元で待つ家族にも負担がかかる。これを善意の寄附を元手として資金援助しようという発想である。地元の新聞社や経済界などにも働きかけた。沖縄の新聞にも連載を組んで活動が紹介された。  東大病院ではこれまで6人の沖縄の方の心臓移植を担当し、全員地元に戻られている。皆それぞれ新たな充実した人生を送っている。大変に喜ばしいことである。日本移植支援協会でもこれまで数多くの移植待機患者を支援してきた。協会の今後の継続的な活動に期待したい。

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