聖路加国際病院 2012年 |
2010年7月に改正臓器移植法が施行されてから間もなく2年になります。この改正は注目を集めましたが、実際の国会審議は政局が関わり国民にはとても解りにくい展開でした。当時のねじれ国会審議の過程で、「脳死を一律人の死とする」というA案にはじまり、A案からE案までが次々に登場しました。それぞれに論点はありましたが、結論は、いかに国会を通過しやすいかという政治的な妥協の産物に思えました。これには、当初が議員立法であったことも深く関係したのだと思いますが、とにかく廃案にならず成立したことは有り難かったです。
国会では、党議拘束を外した議員個人の信念に沿っての投票、一案が過半数を得たらそこで投票を終結させるサドンデス方式、さらに電子投票の採用など、通常みられない仰々しい過程を経て、結果的に脳死を一律人の死とするというA案が衆議院を通過したという報道がなされました。しかし実際には、それ以後の参議院での審議や委員会答弁などを経て、現在の、「移植に限り脳死を人の死と認める」という、一見従来と変わらない結果になりました。ただ、親族優先提供条項が加わり、被虐待児や知的障害者からは臓器提供を行わないこと、そして本人の同意なしに家族の承諾で臓器提供ができること、あるいは小児での臓器提供が可能になったことなど、脳死が本質の話よりは、移植医療との関わりだけが、注目を集めました。
余り注目されず、また余り総論的な議論がなかったと思いますが、法律的には、臓器提供の基本がOpt-inからOpt-outに変わったことは極めて大きな改正であったと考えます。これは、臓器提供に対してNoの意志が明確に示されていないかぎりYesとし、あとは家族の承諾をもってYesとするということです。ドナーカード記入がなくても臓器提供が可能になったことが良く報道されますが、この、本人の意志が確認されなくとも臓器提供が可能になったことが、小児での臓器提供が可能になった背景でもあります。とはいえ、知的障害者の方からの臓器提供や被虐待児からの臓器提供が認められないこと、あるいは親族優先提供があることなど、法律的に矛盾した決定も盛り込まれています。
幾多の問題を抱えてではありますが、今回の臓器移植法正施行を経て、脳死下での臓器提供は確かに目に見えて増加しました。確かに年間30例を越える脳死下臓器提供例は、従来のペースの3-4倍です。これは、従来は望んでも臓器提供に至ることができなかった患者さんの臓器が、必要な方に生かされる機会が増えたことであり、とても喜ばしいことです。ただ、これでも欧米の臓器提供の水準には届いていませんし、何よりもこの間に、小児からの臓器提供が1例に留まった現状は、残念なことです。
これらの背景には、日本では小児科医の大半が脳死患者に接することがないという、小児重症患者の治療が分散されている現状、即ち本格的な小児ICUの存在が極めて限られていることがあります。脳死の診断に必須である「無呼吸テスト」を身近に経験することもありません。また脳死が一律人の死であることが認められていないことや、臓器提供が個人の権利とまで認識されていないことなど、日本の国民感情をそのものがあると思います。脳死は本来臓器提供の有無とは無関係に、人の死として理解されるべきですし、看取りの医療の中でこそ理解されるべきものです。
脳死の概念は、人工的に呼吸を維持できる近代の医療技術の進歩がもたらしたものであり、その背景を理解し難い一般の方に分かり難いことは避けられません。脳死患者に接する機会の多い集中治療領域で働く私たち医療従事者は、一般に受け入れられている心停止、呼吸停止、瞳孔散大の三徴候による心臓死ですら、実は根本は脳死であるのだとの理解を含め、より一層の啓発をすべきだ思います。
丁度15年前の1994年4月、当時8歳の女の子の海外渡航心移植を手助けさせていただいて以来、数多くのお子さんの航空機搬送に係わって来ました。その中には、生後数ヶ月の乳児も、到着してすぐにECMOが必要になるほどの重症なお子さんもいました。一般旅行客で満杯のジャンボジェット機内に仮設のICUを設営しての患者搬送は、人材確保の上に、電池、酸素ボンベ、薬剤、医療機器機材等の準備に加え、出入国許可、飛行安全上の許可、そして先方の病院との連絡と、不安定な患児の治療を続ける傍らの準備は一大チームワークであり、多大な労力を要しました。しかしその苦労も、身内のように患者家族を励まし、手助けし、また渡航費用調達に心血を注いでいる「日本移植支援協会」の努力に比したら、些細な努力に思えました。
改正臓器移植法が施行された以後も小児からの脳死下臓器提供例の増加は芳しくありません。小さな子どもたちにとって、海外渡航移植が唯一の選択肢である状況が続きますが、一方で海外での受け入れ事情の困難さという壁はますます厚くなっており、目の前の支援が必要な患者へ手を差し伸べる「日本移植支援協会」の活動の前途には幾多の困難が待ち構えています。ただ、平成24年度の診療報酬改定で、懸案の小児ICU加算が認められ、小児救急医療にも手厚い対応がとられたことでもあります。まだまだ時間はかかりますが、この状況が好転する素地は作られつつあり、希望の灯火がみえはじめたといえます。 (H24.7)