NPO日本移植支援協会

専門家の意見

星野 健 先生

社会医療法人蘇西厚生会 松波総合病院
理事長
松波 英俊 先生


2015年

なぜ本邦の臓器移植はすすまないのか
1、法改正
2010年に、長年の懸案であった脳死法改正案が両院を通過した。真に喜ばしい事だが、多くの方々はいまだに脳死を正確には理解していないようだ。心情的な話や個人的な感情は別として、科学が発達した現在、社会が脳死を人の死と受け入れない事は、その社会が科学を否定する事に等しい。不幸なことに、脳死を受け入れられない多くの方々は誤った報道を信じている。“脳死患者が生き返る”“脳死患者が出産した”と言った、全く医学的に誤った報道を目にしたが、脳死患者が生き返る事や自然分娩する事は絶対にありえない。報道された症例は脳死ではなく、脳死に近い患者の話であり、帝王切開による出産である。“脳死”と“脳死に近い” は天と地ほどの違いがある。前者は既に死亡しており、後者は生きている。

改正前の法律は脳死を人の死と認めつつ、現実的には脳死体からの臓器摘出を制限するものであった。その現状にそぐわない法律が、やっと欧米並みに改正されたわけだ。法改正により、脳死ドナー(提供者)からの臓器移植が多くなると考えられたが、現実は年50例前後で、人口比ではあまりに提供数が少ない。このことより、法律の改正だけでは臓器提供は増加しないことが明確になった。良く言われるように、医学・社会教育、移植医療体制の整備等、勿論必要だが、最も現在の日本人に不足しているのは、ドネイションの心ではないだろうか。自分に利がなくても他人を助けたいと思う心が有るか無いかの問題である。 脳死からの臓器提供の数が米国に比し日本は比較にならないほど少ない事は良く知られているが、生体からの臓器提供も日本は米国と比較するとはるかに少ない事は何を意味するのか、考えていただきたい。

2、人の為しうる最も崇高な行為
我々が年中行事として贈るお中元・お歳暮をみて、日本人は贈り物が好きな民族だと欧米人は言う。なるほどそうかもしれないと思った。しかし、現代社会のお中元・お歳暮はどれ程心のこもったものであろうか?多分に儀礼的である。場合によっては下心が見え隠れする場合もあると思う。日本人は贈り物が好きな民族だと感じる欧米人は、日本でドネイションが盛んでないことに驚く。本来のドネイションは寄付とも違う。むしろ喜捨に近い感覚の行為である。直接的に自分が得る利益がなくても、寄付・寄進させていただくことにより、自分がうれしい・良い事をしたと感じる行為が喜捨であるが、臓器提供はまさしくその行為である。 ある日突然最愛の家族が死に瀕し、その事実が受け入れられず途方にくれている時、医師から脳死の宣告を受け、臓器提供の話を聞かされる。そして短い時間の間に、悲しみながらも、苦しみながらも、迷いながらも心を奮い立たせて、見ず知らずの第3者を助けるために臓器提供に同意する。

この行為以上に尊い行為がこの世にあるだろうか。提供された臓器はダイヤモンドよりも、黄金よりも何よりも価値の高い、地球上に存在し得る最も貴重な贈り物である。そしてそれは臓器移植を待ち望んでいる、見知らぬ人への無償の命の贈り物でもある。 私は豪州留学中に臓器提供の場面に何度も遭遇し、多くの事を学んだ。翻って、脳死患者がドナーカードを持っていないが故に、家族が臓器提供を申し出てもそれを拒んだ日本の過去の法律は、その崇高な行為を阻害する法律でもあった。改正が誠に誠に喜ばしい所以である。 しかし、その改正後の現実は、日本人にはドネーションの心がないのであろうか、と考えさせられる。欧米並みに臓器提供が行えれる時代は日本にもやてくるのであろうか?

3、臓器移植の原点
わが国は、脳死移植においては欧米から30年の後れを取っているが、生体移植においては独自の発展を遂げて、国際的にも一流の評価を得ている。しかし、国際社会から見れば、この姿は歪んだ状態と映る。そもそも移植医療は、ある臓器が不可逆的な不全に陥った場合、その人を救命するためにはその臓器そのものを取り替えなければならないという発想から生まれた医療である。ここで使用する臓器は、ドナー(臓器提供者)のリスクなく得られる亡くなられた方からの臓器である。亡くなると言っても、心停止下での臓器提供はレシピエント(臓器受領者)に害が及ぶ事があるため、脳死からの臓器提供となったわけだが、その脳死が国内で容認されないため、止むを得ず、生きている身内から臓器をいただく生体移植が日本では発展した次第である。 欧米では、脳死ドナーから移植するのが基本だが、欧米でも脳死ドナーが不足しているため、緊急時には生体移植も止むを得ないと考える。

一方、法改正にもかかわらず、国内での脳死移植は年間約50例であり、緊急時に生体移植が脳死移植を補っているとはいえない。生体移植が完全に脳死移植の肩代りをしているのが現状で、脳死が社会から認められないがゆえに、本来侵襲を加えるべきでない健常な人に侵襲を加える事を許している事にもなる。一部の移植施設や一般社会において、さしあたり現状でいいではないかといった風潮があるが、それを容認してはならない。脳死からの移植にはドナーの危険がないが、生体からの移植では常にドナーに危険が伴うからである。臓器移植の原点は亡くなられた方から提供された臓器を使う事である。 こういった事柄を医療従事者のみならず、国民がしっかり理解して社会を変革しなければ、ひずんだ日本の医療は正常化しないと考える。

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